IMG_3718

母の末妹である叔母が、3月の終わりに桜とともにあの世に旅立った。そのせいか、ここ数日いろいろと昔のことを思い出していた。
 桜とともに旅立った、桜のような叔母

母や叔母が育った生家は米屋を営んでおり、二人は8人姉弟の長女と末っ子の間柄だった。祖父はわたしが生まれる前に亡くなったそうなので、叔母にしてみればずいぶん子どものときに父親が他界したということなのだろう。

それもあったのか、母はこの叔母のことを人一倍気にかけていた。

祖母が他界したときに母が受け取るはずだった結構な額の遺産を、当時まだ家を持たなかった叔母に譲ったりとか、叔母がカナダに留学したときに何がしかの資金提供をしたりなど、かなりの援助をしていたらしい。

その頃、わが家は父親の仕事が変わり、4人の子どもの教育費も相当かかって家計は火の車だったはずなのだ。

現にわたしも内職を手伝っていたし、私学の小学校は学費滞納で転校直前の状態だった。お小遣いをもらった記憶もあまりない。中学は給食のない学校だったが、お弁当を作ってもらうこともなかったのでいつもパンを購入していた。

自分が守るべき家はそんな状態だったのに、母は叔母にはいつもいい顔をしていた。叔母はその後、都内に一戸建ての家を購入し華やかな暮らしをしていた。

10代だったわたしは、母にも叔母にも腑に落ちないものを感じて、それ以来叔母と会うことは少なくなっていった。


片づけのできない女を母に持つこと


母方の祖父は、生前かなりの事業家だったらしく、母が若い頃は小豆の先物取り引きなどで、景気よくやっていたとのことだ。母親もその手伝いをして、大きなお金が動くことを目の当たりにしていたらしい。

詳しい話しはあまり聞かなかったが、育った環境も影響しているのか、母はどちらかというと家庭に入るより、外にでかけることの好きな人だった。

一時は司法書士事務所で仕事をしていたのだが、家のことより数字を追いかけている方がよほど楽しかったのだろう。家事はほとんど放棄状態だった。

片づけのできない女でもあったので家はいつもモノであふれかえり、食事も用意されることなく、中学生のわたしは家に帰るのが本当にイヤだった。

家計も家庭もちゃんとできず、でも近所のコミュニティセンターに行ってはタバコをふかしえらそうにしていた。寿司屋に行けばアワビを頼み、他のお客にふるまうような人だった。

小さなことをさも大変そうに言い、「無理だよ、できっこないよ」が口癖で、子どもたちはどれだけ芽を摘まれてきたことだろう。

そんな母を理解できるわけもなく、わたしは母がずっと嫌いだった。顔を合わせれば、いつも文句を言っていた。自分で稼げるようになると、わたしは家から離れたくて、オーストラリアに逃げるように出国した。


父の、そして、母の介護


帰国後も両親はしばらく元気だったが、数年もするとそれなりに病気がでてきた。父はわたしが37才のときに脳出血で倒れ、以来、車いすから寝たきりの状態になった。

そんな父も、倒れてから10年後、静かに息を引き取った。ずっと介護をしていたわたしは、もうこれで家での役割は終わったと思った。

だから、実家をでて長野県に仕事と家を見つけ、一人移住した。もう、実家には戻らないつもりで。

しかし、あれだけ偉そうにしていた母も、父の介護中からリウマチを患い病院通いが続いていた。実家には未婚の姉もいたので、当然母の面倒を見るだろうと思っていた。

だが、この二人は最悪に相性が悪かった。

身体の自由が利かなくなった母に、姉は幼い頃の復しゅうでもするようにキツく当たるようになっていった。帰省するたびに母から姉の愚痴を聞かされ、泣かれた日にはさすがにわたしも面倒になった。

結局、平日は実家で、週末だけ八ヶ岳にもどるという二重生活を始めた。

ディサービスや病院への送り迎え、着替え、トイレ、入浴介助。枯れ木のような母は、軽く折れそうだった。不思議なもので、男親の下の世話は案外抵抗がないのだが、女親はなかなか難しいものがあった。


理解はできないけど存在はする


父親のときも含めて10年以上にわたる介護生活に、さすがにわたしもイラ立つことが多くなってきた。姉とのこともあり、「何でこんなに親に縛られなければならないのだろう」という思いがどんどん大きくなって、「早く死ねばいいのに」と心の中で何度もつぶやいていた。

普段から言葉も厳しく、声を荒げてしまうことも多くなっていった。ある時、わたしが必死に貯めていた100万単位のお金を(もちろん母名義だが)、無断で内装工事のために使ってしまうことがあった。

さすがに切れまくったわたしは、大声で叫んでいた。
「てめえ、ふざけるんじゃないよ、クソばばあ死んじまえ!」と。

かなりの時間、暴れまくった。モノを投げ、罵倒し、壁を蹴り…

疲れ果てて部屋に戻った時、何かがストンと落ちた。たまっていたものを吐き出したことで、何というか母親の生きてきた道を、受け入れられたような気がしたのだ。

そのあとしばらくしてからわかったことがあった。「理解しよう」としていたことが間違っていたと。

理解はできないけど、存在はする。そういう人種が世の中には山のようにいるのだ。というより、もしかして他人なんて多かれ少なかれ、そんなものなのかもしれない。

それ以来、わたしは母親を、母親としてではなく一人の昭和を生きた人間、と思えるようになっていった。


死んじゃえ、と思ってもいい


今、介護まっただ中の人は、ことばにできないことや、イライラすることもたくさんあるだろう。心の中で「死んじゃえばいい」と思って自分を責めることも。実際わたしもそうだった。

あの時、言葉をぐっと飲み込むこともできたかもしれない。だけど、爆発したおかげで、間違いなくわたしは救われたのだ。

だから、せめて自分をほめて欲しい。「良くやっているね」と。恐らく誰も言ってくれないから。

そして、心の中で「死んじゃえ!」と何度でも叫ぼう。さらにエアでなら、坂道の上から車いすの手を離しても大丈夫。ただし、エアですよ。笑

それにできたら、何らかの方法でちょこちょことガス抜きをして欲しい。

わたしは現在は両親の介護も卒業し、自由にやらせてもらっている。が、桜の散るこんな季節は特に、ヒリッとするような痛みとともに、父や母を連れて花見をしたことをしみじみと思い出す。


【こちらもどうぞ】
 タイニーハウスを作りたいわけ③親の家を片づけて



■遠藤レーコ:プロフィール

■よりあたふたな日常お届け中!