花曇りで少し肌寒かった今日、気丈で美しい叔母が亡くなったと連絡を受けた。
享年68。

10年以上前から心臓を患っていたそうだが、3年前の母の葬儀のときには、それをおくびにも出さずに別れの挨拶にきてくれた。

若いころ、外国生活にあこがれて単身カナダに留学し、帰国後も華やかな暮らしをしていた。少し背伸びをしているようにも見えたけど、存在自体に華のあるひとだった。

母が元気だったときにはよく家にも来ていたし、従妹を預かったこともあるので、馴染みもあった。けれど両親ともにだんだんと弱ってきてからは、特段連絡することもなく疎遠になっていた。

でも、電話を取って叔父が名乗った瞬間に良くない知らせだとわかった。というより、受話器を取る前から何か察知していたように思う。

最近は、家の電話にはセールスくらいしかかかってこない。しかも夜9時。普段は出ないのだが、なぜか「出なくては」と思った。いつもより長くコールしていたから。

知らせを聞いて、叔母とはずいぶん会っていなかったとはいえ、何とも言えず感情が揺れた。

特に今日は、昼間花見でずっと友人たちとおしゃべりをしていたせいもあるかも知れない。楽しくリアルな時間と、旅ゆく先の世界。そのはざまをかいま見ることは、妙に現実を遠くさせる。

写真をセピアに加工して時間を止めるような感じだ。桜が散るのを見ながら、そんなような話しをたっぷりしていたこともあるのだろう。

わたしは桜をこの上なく美しいと思う反面、おなじくらい狂気も見いだす。なので、実は怖いのだ。

競うように咲き誇るのと、約束されたように散って行く、その両極が生と死の同時性をまざまざと見せつけるからだと思う。

そんな桜とともに旅立った叔母は、自らの生き様を最期まで演出したのかもしれない。どこまでも美しく、どこまでも狂気を秘めた、その生涯を。