血縁とは、始めから与えられたもの。結縁とは、なにかのはからい、ご縁によって結ばれてゆくもの。
すると、はじめにツイートを引用させていただいたれんげ舎の長田さんが、”「単に関係ができる」という意味を越えて、「仏様との縁を結ぶ」という意味があるそうです。”と教えてくれた。
結縁とは?仏法とは??
そこで、さっそくネットで調べてみたら、次のような深いことばであることがわかった。
結縁【けちえん・けつえん】〜デジタル大辞泉より〜1 仏語。
㋐仏・菩薩 (ぼさつ) が世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶこと。けつえん。
㋑世の人が仏法と縁を結ぶこと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること。けつえん。
2 関係ができること。特に親類になること。けつえん。
なるほど、衆生であるわたしたち世の人が、仏法と縁を結ぶのを結縁というのだそうだ。
では、仏法って、仏さまって一体何?
仏さまは、どこかの宗派の信者であったり菩提寺がある家庭なら、何かとお世話になっているだろう。うちにもお仏壇があって、ご本尊が祀られているからまったくなじみが無いわけではない。
でも残念ながら、今の社会では日常的にふれることは少ないのでは?
でも残念ながら、今の社会では日常的にふれることは少ないのでは?
お墓参りやお葬式などでお寺さんにでかけるとか、有名な寺院を観光で尋ねるなどの機会がなければ、日常的に「仏教」「仏法」「仏さま」を身近には感じないと思う。
なので、「未来の成仏・得道の可能性を得るために結縁する」、と言われてもピンと来ない。得度するなど、仏門に入る人だけしか『結縁』できないのか、と疑問にも思う。
神棚をお返ししたら
わたしの実家は日蓮宗だけれど、自分は、まったくの無宗教でいずれの宗派にも属さない。2年かけて行った「親の家のかたづけ」では、心苦しかったが神棚もお札も返納した。
だからといって、無信心とも違う。
逆に、神棚をお返ししたことで、毎朝の礼拝も月々のお参りもしなくなったけど、そういった集合無意識的なものに依存しなくなった分、自分というあり方が問われる。
そして、何かわからないけど確かに存在する、その「何か」をとても身近に感じるようになった。
先日亡くなった、森のイスキアの佐藤初女さんが以前どこかで言っていた。彼女はクリスチャンだが、祭壇を設けて特別に祈りを捧げることはなくて、「毎日の行い、おむすびをむすぶことが祈りだ」というようなことを。
わたしが初女さんのようなことをできるわけもなく、ただあたふたしているだけなのだけれど、でもふとした瞬間に、「ああ、ありがたいなあ」という感覚がぶわ〜〜っと内側からわいてきて、涙があふれることがある。
言い方は何でも良い。
それがわたしにとっての神さまであり、仏さまを感じるときだ。
でもわたしは特別な行為や、特別な場所で神さまや仏さまの存在を見いだすのではなく、雑巾がけをしたり、わんこの散歩したり、誰かと笑い合ったりすることで身近に感じていたいのだ。
その意味では、隣でゴ〜ゴ〜いびきをかいて、時たまスカシっ屁をするうちのワンコ達にも、その辺にころがっている石ころにも仏さまを見つけたい。
実家の近所のがんこ爺さんは少し難しいけれど、でもやっぱり菩薩であり不動明王なんだよね、と、できれば、なるべく……
思うようにしよう。汗;;
そう、わたしには、未来の得道も成仏もいらない。今、こうして存在している、それがすべてだ。
仏さまは、誰の中にも、あなたの中にはたくさん、そしてわたしの中にもおそらくちょびっとは存在している。
もちろん、得度して仏門に入り求道することも素晴らしい。
でもそんなストイックなことのできない世俗のわたしは、せめて、だるまさんがころんだで遊ぶように、すべてに仏さまがあることをずっと探しつづける。いつまでもオニ役なのね。笑
それがわたしにとっての「結縁」だなあ、としみじみ思わせてくれたこの数日間だった。
【関連】
▶︎血縁から結縁へ〜結婚を超えた家族の作り方
▶︎タイニーハウスを作りたいわけ③親の家を片づけて
先日亡くなった、森のイスキアの佐藤初女さんが以前どこかで言っていた。彼女はクリスチャンだが、祭壇を設けて特別に祈りを捧げることはなくて、「毎日の行い、おむすびをむすぶことが祈りだ」というようなことを。
わたしが初女さんのようなことをできるわけもなく、ただあたふたしているだけなのだけれど、でもふとした瞬間に、「ああ、ありがたいなあ」という感覚がぶわ〜〜っと内側からわいてきて、涙があふれることがある。
言い方は何でも良い。
それがわたしにとっての神さまであり、仏さまを感じるときだ。
仏さまを見つけよう
宗教界からは、不謹慎と言われるかも知れない。でもわたしは特別な行為や、特別な場所で神さまや仏さまの存在を見いだすのではなく、雑巾がけをしたり、わんこの散歩したり、誰かと笑い合ったりすることで身近に感じていたいのだ。
その意味では、隣でゴ〜ゴ〜いびきをかいて、時たまスカシっ屁をするうちのワンコ達にも、その辺にころがっている石ころにも仏さまを見つけたい。
実家の近所のがんこ爺さんは少し難しいけれど、でもやっぱり菩薩であり不動明王なんだよね、と、できれば、なるべく……
思うようにしよう。汗;;
そう、わたしには、未来の得道も成仏もいらない。今、こうして存在している、それがすべてだ。
仏さまは、誰の中にも、あなたの中にはたくさん、そしてわたしの中にもおそらくちょびっとは存在している。
もちろん、得度して仏門に入り求道することも素晴らしい。
でもそんなストイックなことのできない世俗のわたしは、せめて、だるまさんがころんだで遊ぶように、すべてに仏さまがあることをずっと探しつづける。いつまでもオニ役なのね。笑
それがわたしにとっての「結縁」だなあ、としみじみ思わせてくれたこの数日間だった。
【関連】
▶︎血縁から結縁へ〜結婚を超えた家族の作り方
▶︎タイニーハウスを作りたいわけ③親の家を片づけて
わたしも昨年、半年間参加して『場』について改めて見つめなおす機会をいただきました。また、『場』そのものが力をもっているのだな、ということを実感しました。
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