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先日のこの記事が、ありがたいことに大変よく読まれています。
▶︎あなたは最期の瞬間に何を腕に抱きしめていたい? 

そこで改めて伺いますが、

「あなたは最期の瞬簡に何を抱きしめていたい?」


切ないほど身近な、でも遠いもの

あなたは大切な人たちに囲まれて安心して逝きたいだろうか?それとも大好きなモノを胸に抱いて一緒に旅立ちたい?

どちらもステキだ。だけど、どんなに大好きなモノであってもあちらには持っていけないし、残念ながら、あなたが誰かをどんなに深く愛していても一緒に橋を渡ることはできない。

そんなこと当たり前だ、と言う声も聞こえてくる。死が平等に訪れることはみんな頭では知っているのだ。

でも、本当にそうだろうか。その時が自分にもいつかくるということがリアルに感じられていますか?明日も今日と同じような日がくると思ってはいませんか?

かくいうわたしも「その時」の訪れは今日や明日ではなく、まだずっと先だと思っている。ただ、いつか確実にやってくる、それはもしかして明日かも知れない、ということだけは理性でなくもっと根源的なところでわかっている。

両親や友人、最愛のわんこやにゃんこたちを送ってきて、なんというか、わたしにとって死は、切ないほど身近で抱きしめたくなるけど、抱きしめることもできない遠い存在でもあるのだ。


どんな人生も必ず途中で終わる

50も半ばになると、本当に時間の経つのが速くて驚く。1年なんてあっという間だ。だとしたら、5年10年なんてのもあっという間だ。そのときに初めて気づいて呆然となっても遅い。

また、これも不思議でならないのだが、どんなイノチも生まれた瞬間から死に向かっている。なんて理不尽な、と思いませんか?死が約束されているのに誕生してくるんですよ?

さらに死は、どんな人のタイムラインも途中で終わらせてしまう。約束されているのに、それがいつ来るかわからないというだけで、人生は必ず未完で終止符を打つのだ。

ということは、人生とは理不尽でよくわからなくて、しかも永遠に完成しないまま終わるものだということだ。わけわからん。

ただ、それを承知しているかどうかで、今が変わる。何かを成し遂げてぽっくり逝きたいと思うのも良し。だけど、そうは行かなくてジタバタしたってそれもまた良し。いずれにしろ分からないのだから。分からないものは、怖いに決まっている。

それに基本、どんな最期を迎えようと、孤独死だろうが、家族に見守られて旅立つのであろうが、不慮の事故だろうが、誰かが「生を受け生きた」ということにおいて、わたしはすべて尊いと思っている。


その上で、どう生きるか

アメリカのタイニーハウス第一人者のDeeは、暮らしをダウンシフトして、タイニーハウスに住むようになったきっかけは自身の心臓の病だったと言っている。そしてそのことを”リマインダー”、何かの注意喚起だと捉えた、と。
わたしは肥大性心筋症を患っていますが、病気の診断を受けた時、それを“リマインダー”だと捉えました。

そのことで私は自分と周囲との関係をもっといい関係にしていく必要があると気づいて、そのためにどうすればいいのか考え、それは今もずっと続いています。
わたしとっては、親の介護や見送り、実家の片付けなどを通じて経験してきたこと、八ヶ岳の自然にふれること、Deeの考えやタイニーハウスに出会えたこと、これから作りたいと思うことなど、すべてがリマインダーである。

最期の瞬間は、いつくるかわからない。それに誰にもリマインダーがあるとも思わない。逆に、どんなものでもリマインダーにもなりうる。

そんな私にできることといえば、暮らしをシンプルにして一日ずつをていねいに生きること。それともし、誰か友だちがHelpを出したら迷わず飛んでいく。

あとは、とにかく目の前の人を笑顔にすること。ひとつでも笑顔に出会えたら、その日は超ハッピーだ。

ありがたいことに、わたしには大先生がいる。この方は、舌ベロを出してぼへ〜っとしているだけで、道ゆく人を笑顔にする。その点ではわたしはまだまだ未熟だ。
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きなり先生のように、一日ずつを生きていたら、未完だろうがなんだろうが、一生も笑顔で終えられることだろう。

その時、わたしは何も抱きしめてはいないだろうけど、きっとこう言う。

「あ〜面白かった。みんな、ホントにありがとね、
楽しかったよ!んじゃ、お先〜!!」ってね。


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